
社に奉斎する家康公は尾張徳川家中興の祖にして、名古屋の地を開き、城を築いて第九子義直公(尾張藩祖)を以て始めて居城せしめられ、名古屋開府の祖神にし恩神でもあります。
家康公逝去後三年即ち元和五年(1619)九月十七日に義直公は日光山鎮座の式に準じて、城郭内三の丸に社殿を創建し天台宗尊寿院並びに神主吉見公和氏を以て奉斎せられ社領一千石を附せられたが、廃藩と共に廃せられる、明治五年五月村社に列せられ、同年八月八日縣社に昇格、同九年十月舊藩立校明倫堂跡地即ち現在地に遷座される。
建物は、創建以来の権現造の本殿、渡殿、楼門、唐門、透塀、楽所、社務所等極彩色の国宝の諸建造物が並び輪郭の美を極めていたが、戦災を被り烏有に帰す。
明治五年五月村社に列し同八年八月縣社に列せられる。
現在の本殿は、昭和二十八年十月尾張徳川家より藩祖義直公の正室高原院殿(春姫)の霊廟〔慶安四年(1651)建立〕を移築し社殿とする。
昭和三十五年県重文に指定される。
四月執行の大祭は家康公三回忌に当たる元和四年より斎行せられ、翌五年社殿を創建し六年初めて御旅所を、若宮八幡社の北に設け、同年四月十七日神幸の儀を行い、寛永七年(1630)に至り朝廷より楽人を招き路楽を奏し、後に十三人の楽人を置き、十六日には此れの楽人により神前に舞楽を奏するのが例となった。
十七日には神幸の儀が行われ、神輿を始め山車九両を列ね供奉総勢六千八百余人にも上り、名古屋祭と称して代表的な祭礼であったが、山車は戦災により悉く焼失せり。
現在は神社内の行事で、十六日は前日祭に続き舞楽奉奏、十七日は大祭、武道大会を行っている。